映画『ゆるキャン△』について全体的な所感

先に感想について結論だけ言うと、すげーよかったです
もうねこの作品大好きです
まぁまぁ長文になっちゃいましたが、すげー好きという立場からこの作品はこんなテーマだったかぁとか、ここってこういうことかな?と考えたことや最終的に自分が感じたことまとめてみました
個別のシーンごとの感想も色々メチャあるけどそれは別記事にまとめて、この記事では全体的にどうだったかなぁ、こう感じたなぁというのをまとめてみました
本作見てない人はこんなの見てないと思いますが、一応以下ネタバレ注意ということで


内容はざっくり以下の通りです

 

・根本的なテーマはなんだったのだろう

・野クルメンバーがキャンプ場作りで本当に考えていたことはなんだろう

・大人にしたことへの個人的な見解およびこれまでのゆるキャン△との違い

・最終的感想

この内容を深掘りしていきます

 

 

・根源的なテーマはなんだったのだろう
これは、
①大人になって変わること変わらないもの
②人生における社会性
かなと思った
なんか2つ目は説教くさい字面になっちゃったけどまぁ聞いてほしい

 

 

①大人になって変わること変わらないもの
人は大人になるにつれ大なり小なり自分に親しい人と親しくない人とで対応が変わる
それは敬語を使うなどの礼節や思ったことを相手にすぐ言わなかったり色んな形があるだろうがまぁそういうもんだと思う
こういった大人としての一面が顕著に描かれていたのが接客時と野クルメンバーで対応がいい塩梅で違ったなでしこである
大人としての立場で見るとあぁこういう感じで生活のために必要でやってる他人への応対(とはいえなでしこの場合やりたくてやってそうな感が強い)と旧知の友人との対応はそらやっぱ全然違うよなぁ、大人になってるんだなぁと強く感じるとこではある
逆に野クルメンバーへの、高校時代と変わらない対応がまたTV版から見ていたいつもの彼女らだなぁと、安心感にぐっと寄せてくれる
そして中盤からなでしこはいきなりショベルカー持ち出してきたり大垣は地元の人(岡崎さん)から借りた草刈機持ち出して、つまりは""大人ヂカラ""を発揮して清々しいくらい高校時代との違いが描写される
一方でシマリンの「考えておく」がほぼyesと捉えられていたり、なでしこは旧友と久々に会うなり思わず昔のような声色で駈け寄ったりと、""変わってない部分""の描写も強く描かれる
つまり高校時代から変わってた部分はかなり豪快に強く描かれているのだけど、その反比例で皆の変わってない部分の描写が丁寧に大事に描かれていると感じた
ついさっきまで大人としてきっちり接客してるシーン描かれてたなでしこが三年ぶりに会う旧友には昔と同じような声色で駈け寄ったりとかね
そしてラストで改めて「考えておく」で締められるのは、まさに変わらない部分を大事にしているがゆえの描写だと思う

 

②人生における社会性
あえてふわっとした感じの言い方にしてるけど、要するに人生は自分が認識してるしてないに関わらず、人との関わり合いが絶対にあるということです
遥か紀元前にアリストテレスさんが「人間は社会的動物である」と言っているように、人間の営みは山籠りの仙人でもない限りその原点に他者との関り合いがある
典型例だと劇中でも言及あったようにシマリンにやりたいことやらせてた刈谷とか、その刈谷も編集長に昔は助けられていたとか、イヌ子と大垣だってあれは支え合いだと思うし大垣は更に地元の人との助け合いみたいなことをしている等

例を挙げればキリがないが、つまり人生とは自分の認識の如何にかかわらず他人と持ちつ持たれつになっていて、そのことは学生やってるうちは気づきにくい(と、思う)
このことを人生のどこかで認識し始めたかどうかでもきっと人への対応は大なり小なり変わるのだろうと思うけど、そういった意味での成長を持たせるというのも全体通して大きなテーマだったんじゃないかな、と思ってる

 

 

・野クルメンバーがキャンプ場作りで本当に考えていたことってなんだろう
いやなでしことシマリンは明確に描かれてたでしょという感じだけど、実は大垣とイヌ子と斉藤は明確にセリフとして描かれてないのよね
とはいえ概ね気持ちの方向性は同じだろうけど要するにウェイト置いてる部分はちょっと違うかなと
自分がこうかな、と感じたのは以下の通り

①なでしことシマリンは楽しいと思うことを伝える「伝播」
②大垣とイヌ子は「地元への振興」
③斉藤は犬(家族)

このあたりかなと感じたので、以下深掘り

 

①なでしことシマリンについて、楽しさの伝播

登山からの温泉でなでしこが語りだす「やりたかったこと」には視聴者一同胸を打たれたと思う 俺も打たれた
けどなでしこには最初からそういった考えがあったわけではなく(もしくは自覚してたわけではなく)、最初はただ楽しくキャンプ場作りをやっていたところからの頓挫があり、その後なでしこが自身の仕事を通じてそういう気持ちがあったということに気付いてシマリンを温泉(山登り)に誘うという過程がある
仕事を通じて客の女子高生たちにキャンプの楽しさを教えるところで、「自分が楽しいと思っていることを伝える」というのを、それも旧知の友達とキャンプ場作りを通じてやりたかったということに気づく
つまりなでしこが「やりたかったことに気づく」形で提示されていく

まぁこの辺は明確に語られていることではあるけど、このことに「気付く」という過程がいいなぁと思った
物語的には「何をしたいか」が最初から明確に見えている方がいいかもだけど、現実にそんな最初から明確なビジョンが見えてる人などそうそういないし考えてる気持ちの整理という点はリアルさを感じる
小粋な演出だと思う

 

②大垣とイヌ子について

「自分達が楽しいと思うことを伝えたい」と明確に描写があるなでしことシマリンと違い、この二人は大垣がイヌ子に「やっぱりさ…(キャンプ場作りがしたい)」と言うシーンがある以外に「どういう理由で」のところは明示されない
と言ってもなでしこが「楽しさを伝えることそういうことが沢山生まれる場所」と話しているのと同時間軸で大垣とイヌ子が動いてる描写あるからほぼ考え方同じだとは思うんだけど、この二人についてはちょっとした異説を唱えたい

大垣とイヌ子は「地元に盛り上がってほしい」という気持ちにウェイトがある方がしっくりくると思ってる
勿論単に諦めきれないということでも、なでしこシマリンと全く同じ理由・動機ということでもいいというかそういう理由も含まれてるだろう
しかし、たとえばイヌ子が赴任している学校が廃校になる話は地元民の大垣と鳥羽先生としか(少なくとも劇中では)してない
学校で片付けをしているイヌ子を迎えに来るのも大垣
こういった地元で起こっていることの話は基本大垣とイヌ子が担当していて、もちろん地元住みというのもあるが若干この二人のが地元に関するノスタルジー的描写が多い

よって、キャンプ場が出来て「地元が色々さびれちまってるけど、それでもこういう盛り上がる場所ができてよかった」という気持ちが強いというほうがしっくりくるし、それに個人的にその方がゆるキャン△ぽいと感じる
なぜなら個々人で気持ちのウェイト置いてる部分に微妙に違いがあるほうが、TV版でシマリンや斉藤を無理やり部活の枠組みに入れたりしなかった、「違い」を否定しないゆるキャン△らしいと思うのよね
この2人は地元を盛り上げるという気持ちが強い方が話に厚みが出るかな、という気がしてる

 

③で、斉藤だけ「イヌ」ってなんだ

という話だけど、正直斉藤だけはキャンプ場作りをやりたいというところの根拠がちゃんと見えないし推測できる箇所も少ない
しかし劇中徹頭徹尾「犬」のことしか考えてない感じがするのでキャンプ場作りをしたいという気持ちの根っこの部分も結局犬なんじゃねと思ってる
頓挫した後の描写はちくわに会いに実家に帰るシーン、ちくわと散歩してるシーンということで見事なまで「犬」

いやでも素晴らしい動機ですよ、自分も家族(ペット)も楽しめる場所を作るということに一番重きを置いているということで
というか斉藤は劇中全体を通して一番マイペースなので、4人とは違うゴーイングマイウェイだったとしてもしっくりくる
そしてそれが普通に集団の中で許容されるという感じ、とてもゆるキャン△らしいとは思いませんか

 

つまり地元残留組は「地元振興」、外部組は「楽しいの伝達・伝播」にウェイト置かれてて、けど何度も言うようにたぶん気持ちの方向性は概ね同じでありつつ微妙に考え方違うていうのが自分の中で一番しっくりくる
気持ちを吐露するシーンがきっちり描かれてるなでしこシマリン以外のメンバーがどういう気持ちだったかは正確に推し量れないが、頓挫した後のメンバー集結が(少なくとも本編中の描写で見る限り)早かったのを見るに、共通して全員「やり残した感」は間違いなくあったのだろう

 

 

・大人にしたことへの個人的な見解およびこれまでのゆるキャン△との違い

今回の劇場版ゆるキャン△で物議を醸したのは恐らくこの大人化だろう
といっても自分の周囲の評判や興行収入という数字を見る限り、大人化したことひいては作品自体概ね好評だけどそれでも「大人になった彼女らを見たくなかった」という意見も個人的にそれなりに目にすることはあったかなという印象
たしかに劇中時間軸で言えばTV版放映時の2018年が同じく劇中の年月だったとすると7年という時間が経過しておりすると2025年ということになる
これはむしろリアタイ時点での我々の時間軸(2022年)からするとちょっとした未来ですらある
シマリンなんか幻覚見てるし(笑)
一足飛びという意見もあっておかしくない

つまり
・きらら作品らしいゆるふわを見ていたかった
・彼女らの未来を勝手に決めてほしくなかった(あfろ先生監修だけど)
・シマリンが本気で社畜な感じで働いてたり幻覚見てたりして恐怖だった
このような意見はあって当然だろう
シマリンの幻覚シーンは俺も怖い

しかし振り返ってみると2ndシーズンにおけるゆるふわ具合は最後の伊豆キャンで軌道修正はしたものの、山口湖死にかけ事件に代表されるようにゆるふわ感が大分鳴りを潜めていたと思う
ハナっからよくあるきららアニメよろしく脳死作品やる気などなかったんじゃないか今思えば

上記踏まえ大人化の話に戻すと、これまでよりも物語にリアリティを持たせる設定というか時間経過なんだなと思う
たとえば劇中における人の流れに注目してみると、TV版までは自分たちの輪の中でアウトドアを楽しんで完結していた話が、地元の岡崎さんだったり(間接的ではあるが)シマリンの同僚だったり、果ては土器発掘の人までと徐々に輪の外にいる人々を巻き込む流れになっていた
つまりどんどん他人を巻き込んで大きなことを進めていくという点はこれまでのTV版との大きな違いだと思う

さらに、野クルメンバーは今回の話で色々クリエイティブというか工事とか自分達でしまくっている、""創造""の要素も大きな違いかと思う
そもそも単にキャンプ場再開発ということであれば地域ボランティア的な流れでむしろTV版から時間軸を大きく変えず高校生の頃の延長的な話でもよかったはず
たとえば高下(高下じゃなくてもいい)にキャンプ場再開発計画が既にありそれを部としてボランティアしにいく、とかでも大枠同じで話は成立する
しかし今回の内容は「年単位で放置された土地に」「自治体の許可をとりつけて」「整地作業やコンテンツ作りもほぼ全て自分らで」「時には地域住民も巻き込んで」、キャンプ場作りをするというもの
高校生が全部やるというのはゆるふわでありながらある程度現実に即した話を展開するゆるキャン△においてちょ~っとばかし無理があり、TV版になかったクリエイティビティの高い内容を大人化することでリアリティ持たせている

また先に上げた大垣とイヌ子の地元への振興という要素にしても、大人にして描いた方がリアリティがある
特にUターンして市の観光推進機構に転職した大垣などは東京(都心部)と地元との客観的比較が一番できているはず
それだけにあまり言及されてはなかったものの大垣は一番地元愛を強かったのではないか、そもそも地元の観光推進にあたり仕事で散々盛り上がってない箇所見てきたろうし
恐らくだけれども大垣が大人になり東京に行ったからこそ感じた郷愁ということで、リアリティを以て描写できた要素だろう

要約すると、「もっと大きなことをやらせたかった」「行動の理由や感情にリアリティを持たせたかった」がゆえの大人化なのかなと思ってる
そしてその先にあるのが、自分たちが楽しいと思ってることを伝播すること・住んでいる地元への郷愁・家族も楽しめる場所を作ること、となる
無意味に大人になったという要素など一つも無いと思う

また、途中で頓挫する描写はそれまで順調だったキャンプ場作りやなでしこ・シマリンが車とかバイクで「ひとっとび」で高下に来てたことに象徴される、op前冒頭で言われていた"大人になれば大体のことができる"の「できる」部分の反例だ
できないこともある、案外どうにもならんこともある
というか一度は大人しく諦めたあたりも彼女らが大人になったことを実感するけども、それでもやっぱやりてぇなぁ…となりもうちょっと動いてみますか、という展開

この一連の流れは「大人になったからできること、できないこともある」「でもやりてェもんはやりてェ」を見事に描いておりやはり大人化したからこそ描ける話であると思う
結論としては
・TV版、映画版の大きな違いは活動のスケールの大きさと創造性
・大人として描いたのは野クルメンバーの行動や感情にリアリティを持たせるため
このようにまとめたい

 

 

・最終的感想

ここまでのお話全体の構成の捉え方を踏まえた感想ですが、いやマジすげーよかったです(語彙)
大人になって日々自分の暮らしがある中、かつてのように野クル活動をする彼女らの生き様は眩しいものがあり、見てる自分の生きる活力になった

大人力を活かした創造性、アクティブさ
寂しくなっていく地元への哀愁、それでも盛り上げたいという心境
大人になっても変わらない旧友との付き合い
高校の頃と地続きで描かれているからこそ感じる、彼女らが大人になったことで何でも出来るようになったかのような感覚
けどその中で出来ないことがあるという、ある意味大人側の視聴者から見ると当たり前な現実
それでもやりてェもんはやりてェという前向きさ
これらがミルフィーユみたいにかけ合わさり、見終わった後の視聴者の人生を少しだけ勇気づけてくれるような、そんな感覚を覚える

彼女たちがやっていることは
・自分たちがキャンプを楽しむこと(ひいてはたぶん、人生を楽しむこと)
・楽しいと思ってもらうこと
・自分が感じている楽しさを人に伝えること
・自分が暮らしている土地を盛り上げること
・自分だけでなく家族(ペット)も楽しめる場所を作ること

そのために全力を注ぐ
とっても良い、眩しい生き方だと思う
一概に言えるわけはないけど、「充実した人生」とはこういうことを言うのではないでしょうか?

そして最後はシマリンの変わらない「考えとく」で締める
大人になってたくさん変わった部分の描写がありつつ、この終わり方は最高ではないですか?

今までは彼女たちが楽しんでいるのを第三者いわゆる「神の視点」で見ていた
しかしもはや神の視点としてだけでなく、今回は逆に外側に発散していく彼女らのエネルギーを直接浴びているかのような視点になれる
まるで自分に直接キャンプの楽しさをおすすめされているような、と
大人になったなでしこが自分の経験を通じ自覚した「やろうとしていたこと」は、実はこの映画を通じて完遂しているんじゃないかな

大人としての野クルが描かれたことについて、テレビ版のなんも考えず見れるゆるふわ世界観を求めて見た人にとっては青天の霹靂だったに違いない、好みが分かれるところもあるだろう
正直自分も想像していた100倍くらい労働描写が多く自分の過去の仕事の失敗を自己投影したりとか劇中での失敗によりこういう影響があって~とか妄想して勝手に胃が痛くなる部分もある

しかし人は必ず歳を重ね変化していくもの
別に成長させずゆるふわさせたままでもよかったキャラクターたちに成長を与え、変化を描き、人間としてしっかり扱い、向き合ってくれた
ゆるふわしてたあの子たちが大人としてやりたいことにぶつかっていく姿が見れたこと、それ自体に大きな意義があると思う

くそおたくなこと言うと、「きっと野クルの彼女らはこの世界のどこか片隅で生きているのだから、生きているのだから、歳を重ねるのは当たり前」
…そう思いたくなる・信じたくなるような描写が確かにこの作品にはあったと、俺は確信している
そして歳を重ね変わる部分もあれば変わらないものもある、そんな変わらない部分を大事に描き、締めてくれたことが一番""粋"だったんじゃないでしょうか

長くなりましたが感想以上になります
最後にいきなり自問自答して恐縮なんですけど



これ書いている時点でもう大半の映画館で上映が終わっちゃってます
もし自分の近くの映画館で再上映すると言われたら?見に行く?
聞かれたらこう答えると思います

 

うーーーん、考えておく